Masuk霧島との通話が途切れ、事務所に静寂が戻った。「ふぅ……。じゃあ、今のうちに化粧室へ行ってこよ」真琴は席を立ち、コーヒーの湯気がまだ立つデスクを横目に、事務所を出て行った。****数分後……。――カチャリ扉が静かに開く。薄暗い廊下から、何者かが足音を立てることも無く滑り込むように入ってきた。パーカー姿にフードを目深にかぶった侵入者。迷うことなく、真っすぐ真琴の席へ向かっていく。机の上には、まだ湯気の立つ飲みかけのコーヒーが置かれている。侵入者はポケットから小さなスポイトを取り出し、透明な液体を一滴、二滴……静かに落とした。コーヒーの表面がわずかに揺らぐも、色も匂いも一切変わらない。侵入者は足音ひとつ立てず、来たときと同じように闇へ溶けるように去っていった。****――カチャ扉が開いて真琴が事務所に戻ってきた。席に座り、机に置かれたコーヒーに手を伸ばす。湯気は弱くなっていたが、まだ温かい。「もう少しだけ頑張ろ……電話もかかってくることだし」カップを口へ運び、一口、二口と飲む。苦味が舌に広がり、ほっと息が漏れた。「さて、続きやらなくちゃ」カタカタカタカタ……事務所には真琴がキーボードを叩く音が響いている。真琴は何げなく壁の時計に視線を向ける。時刻は20時になろうとしている。「霧島さんの電話遅いわね……まだ忙しいのかな?」――その直後。「……ん……?」視界が、わずかに揺れた蛍光灯の光がにじんで見える。「ちょっと……疲れてるのかな……?」椅子にもたれかかり、こめかみを押さえる。急激な怠さに襲われ、抗えない眠気が襲ってくる。まぶたが落ち、頭がふらつく。「……おかしい……何で……こんな……急に……」言葉が途切れ、指先から力が抜けていく。カチャペンが床に落ちる音が、やけに遠く聞こえた。(眠……い……どうして……)身体を支えることに耐え切れず、机に突っ伏す真琴。そのまま真琴は深い眠りへ落ちた――****事務所は、息を潜めたように静まり返っている。外の廊下から聞こえる空調の低い音だけが、かすかに響いている。その静寂を裂くように、再び扉のノブがゆっくりと回った。カチャ……先ほどよりも慎重な動きで、パーカー姿の人物が事務所に現れる。真琴は机に突っ伏したまま、微動だにしない。背中がゆっくり動き、寝息
――19時半。 都内某ビルの弁護士事務所に、真琴の姿があった。職員はすでに全員帰り、居残っているのは自分ひとり。卓上には湯気の立つコーヒーが置かれている。カタカタとキーボードを叩きながら、真琴は熱心にPC画面を見つめていた。やがて、ふぅ〜と長い息を吐き、椅子にもたれて伸びをする。「……よし。証拠説明書はこれで形になったわね」今日の作業は、来週提出予定の証拠説明書の仕上げだった。細かい番号付けや証拠との紐づけを確認し、ようやく一息つく。肩を回しながら、ふと机の上に置いた名刺に目が止まった。霧島弁護士の名刺だ。「……そうだった。霧島弁護士に天野さんの件、相談するんだった。今……大丈夫かな?」首を傾げつつ、真琴は卓上の電話機に手を伸ばした。プッシュホンを押し、受話器を耳に当てる。トゥルルルル……「やっぱり出ないかしら……」受話器を置こうとした瞬間、応答があった。『……はい、もしもし』声には、わずかに警戒が滲んでいる。「霧島さんのお電話番号でよろしいでしょうか?」まさか出るとは思わず、真琴は背筋を正した。『はい、そうですが……? どちら様でしょうか?』「初めまして。アサヒ法律事務所の弁護士、中野真琴と申します」その瞬間、霧島の声色が変わった。『アサヒ法律事務所の……。いつもお世話になっております』その声音に、真琴は少し安心し、勢いづく。「あの、唐突ですが……天野沙月さんをご存知ですか? 私は彼女の友人なのですが」『え? 沙月さんの……?』電話越しに、霧島が息を飲む気配が伝わる。(沙月って呼んだ……。随分親しげね……?)違和感を抱きながら、真琴は話を続けた。「実は、彼女の夫、天野司氏が困った状況に陥っておりまして……その件はご存知ですよね?」『ええ、もちろんです。天野グループの社長の座を追われたのでしょう? ゴシップで見ましたよ』「ゴシップ」という妙に棘のある言い方に、真琴は眉をひそめた。「はい。沙月の話では……恐らく天野氏は、最近話題になったテレビ局員殺害事件の容疑者にされているからに違いないと。そこで彼女が言ったんです。きっと霧島さんなら、アリバイを証明してくれるはずだと」すると電話の奥で、霧島が小さくクスリと笑う声がした。(え……? 笑った……?)「霧島さん……?」『はい、もちろんいいですよ』「
――バタン 真琴が部屋を出て行った。「……」少しの間、沙月は扉を見つめたまま動けなかった。さっきまで誰かがいた温度が消えて、部屋の静けさがやけに際立っているように感じる。沙月はポツリと呟いた。「仕事の続き……しないと」少し重い足取りでノートPCの前へ戻る。真琴が訪ねてきたときに中断したままだった画面が、開かれたままになっている。朝から続けていた字幕・テロップの誤字脱字チェックの作業。沙月は椅子に座り直した。「始めよう」カーソルを動かして作業を再開した――****シンと静まり返った部屋で、キーボードを叩く音だけが響いている。沙月は真剣な眼差しで画面を見つめていたが……。「う〜ん……」一段落したところで沙月は伸びをした。時刻を確認すると、18時少し前だった。「……きりもいいし、今日はここまでにしておこうかな」出来上がった分をまとめ、AD高橋宛てにメールを打つ。送信ボタンを押した瞬間、ようやく一日の区切りがついた。「ふぅ……終わった。次はスマホとPCのセッティングね」沙月はベッドの横に置いてあった紙袋を手に取った。真琴が用意してくれた新品のスマホとノートPCを取り出すと、PCに付箋が貼られている。「え? これは……?」付箋には、短くこう書かれていた。『旧アカウントは使わないで。安全な端末で、ゼロから始めて』真琴らしいメモ書き。短い文章なのに、胸の奥に静かに重さが落ちる。「アカウントは新しくしないといけないのね」沙月はスマホの電源を入れ、初期設定の画面をひとつずつ進めていった――****――30分後。「できた……」画面には真っさらなアプリだけが並んでいる。「……これで、もう使えるんだよね?」時計を見ると、18時半を少し過ぎていた。(まずは真琴に電話しよう)沙月はスマホを手に取り、真琴の番号をタップするとワンコールで繋がった。「もしもし、真琴?」『沙月ね。良かった、設定できたみたいね』「うん。なんとか全部終わったよ。ありがとう、真琴」『良かった。じゃあ、明日の朝また連絡するね。今日はゆっくり休んだら』「うん……真琴もね」『私はもう少し仕事をしてから帰るわ。ちょっと幾つか案件を抱えていてね』真琴の声には、少しだけ疲れが滲んでいるように聞こえた。「そうなの? 大変ね」『大丈夫、いつものことだか
『……分かったわ、落ち着いて沙月』電話越しから穏やかな真琴の声が聞こえてくる。『今日、またそっちへ行く。多分お昼前には行けると思うから待ってて』頼もしい真琴の言葉に、沙月の胸が熱くなる。「ありがとう、真琴」『お礼なんかいいよ。私たち親友でしょ? それじゃまた後でね』「うん、またね」電話が切れ、沙月は時計を見た。そろそろ9時になる頃だ。沙月は深呼吸をひとつしてから、局から持ち帰ったPCの電源を入れた。ウィ~ン……起動音が静かな室内に響く。デスクトップが立ち上がると同時に、メールの通知が表示された。(……もう来てる)差出人はAD高橋。件名は「在宅でお願いしたい作業です(今週中でOK)」と書いてある。沙月は早速メールを開いた。『天野さん、お疲れさまです。過去放送分の字幕・テロップの誤字脱字チェックをお願いできますか? データを添付しています。急ぎではないので、今週中に戻していただければ大丈夫です。何かあればメールで連絡ください。AD高橋』添付ファイルには、数本分の放送回のテロップデータがまとめて入っていた。「……これって、私を出社させないための仕事じゃないの……?」ぽつりと呟いた声は、思った以上に弱々しい。(でも……井上デスク殺害の容疑をかけられているから、局としては私を出社させられないのかも)理解はできる。けれど……。(なんだか自分だけ蚊帳の外に置かれているみたい……)ふと、井上デスクの遺体写真が脳裏をよぎる。沙月は慌てて首を振った。(駄目……今は余計なことを考えずに仕事をしないと。それに、司の件も……)気持ちを立て直すように息を吸うと、沙月はPCに向き直った。そして、与えられた仕事に取り掛かった――**** 沙月は無心になって作業を続けていた。その時――ピンポーン部屋のインターホンが鳴り、沙月の肩がビクリと跳ねる。(な、何……?)恐る恐る扉に近づき、ドアアイを覗き込んでみると、大小二つの紙袋を手にした真琴が立っている。急いで扉を開けると、真琴が部屋に入ってきた。「お待たせ、沙月。待ったでしょう?」「ううん、そんなこと……」何気なく室内時計を見ると、時刻は12時半を過ぎていた。「え? もうこんな時間?」「もしかして仕事をしてたの?」「うん」「とりあえずお昼にしない?」真琴は紙袋をテー
沙月はテレビのボリュームを上げ、アナウンサーが淡々と読み上げるニュースに耳を傾けていた。「……司が社内の不祥事って……そんな……。あの常に完璧主義の司が?」司は何をするにも抜かりがなかった。理論で相手をねじ伏せ、論破してきた。そんな彼が社内不祥事を起こすなど、到底考えられなかった。そこで沙月は、ハッと気付く。「まさか……井上デスクの殺人容疑で……?」それしか思い当たらなかった。 司の着信をすべてオフにしたことも忘れ、沙月はスマホを手に取った――が、すぐに思い出す。「あ、そうだった……真琴にスマホもPCも使うのをやめるように言われていたんだっけ」沙月はスマホをテーブルに置いた。 司の個人アドレスも電話番号も知っている。 けれど今の沙月には、通信機器を使う手段がない。(どうしたら司に連絡が取れるの……?)室内を見渡していると、サイドテーブルに置かれた白い電話機が目に入った。「そうだわ! 電話!」沙月はホテルの電話の受話器を取り、司のスマホへ電話をかけた。トゥルルル……トゥルルル……しかし呼び出し音ばかりが続き、留守電にも切り替わらない。「……駄目ね」次に家の電話へかけようとしたが、すぐに思い直す。「そうだ、もしかしたら、あの家だって盗聴器が仕掛けられているかも」沙月は電話を諦めた。代わりに、ホテルのPCで普段使っていないフリーメールを開き、司へ短いメッセージを送る。『沙月です、連絡待ってます』送信ボタンを押したあと、沙月は小さく息を吐いた。「普段使ってないアドレスだから、司は気づかないかも……。そうだ、まずは真琴にも話さないと。でも出てくれるかしら……」沙月は再びホテルの電話を取り、今度は真琴にかけた。1コール目で真琴が応じた。『もしもし? 沙月ね?』「え? 真琴、どうして私だってわかったの?」『こんなこともあろうかと思って、そのホテルの電話番号を登録しておいたのよ。それでどうしたの? まさか天野司氏のことで?』「そうよ! 知ってたの?」『当然よ、朝からずっとニュースが流れているもの。だけど不祥事なんて……』「そのことなんだけど、もしかすると井上デスクの殺人容疑で警察からマークされているからかもしれないの」電話越しに、真琴のため息が聞こえた。『そうね……その線が濃いわね』「そのことなんだけど……絶対司
真琴は微動だにせず、真剣な眼差しで沙月の話をじっと聞いていた。「……これで全部よ」沙月が話し終えると真琴は大きく息を吸い込み、姿勢を正す。「沙月、まず言うね」真琴は冷静に告げる。「あなたは今、完全に狙われてる側にいる」「!」沙月の肩がピクリと跳ねる。「送り主は、最初から沙月を選んで送ってきたのよ。恐らく局内に事実無根の告発メールをバラまいた段階からね。私はそう思う。その上でSDカードにわざとパスワードをかけて、暗号を送りつけてきた。それは沙月の能力を試す為だった可能性がある。どこまで自分の力で、やり遂げられるかをね」「そん……な……」沙月は息を呑んだ。「警察には知らせるなってメッセージもそう。あなたの反応を伺っている。相手は何もかも沙月のことを掌握していると思っていい」真琴は指を一本立て、はっきりと言い切った。「だから、ホテルから出ないこと。これは絶対」「……絶対……?」「そう、絶対。外に出た瞬間、尾行される可能性がある。誰が敵で、誰が味方かも分からない。だから、ここから一歩も出ないで」「分かった……言うとおりにする」沙月は小さく頷いた。真琴は次に、沙月のスマホを指差す。「それと、個人のスマホもPCも全部アウト。触るだけで危険。情報を抜かれてる可能性があるから。テレビ局の仕事はどうなってる? 休めそうなの?」「実は明日からはリモート・ワークになったの」「へぇ、それなら都合がいいじゃない。局のノートPCは持ってるでしょ? あの軽いやつ。SIM入りの」「うん……いつも持ち歩いてる」「なら最低限の仕事はできるね。公衆のWi‑Fiは絶対に使っちゃだめ。個人端末は全部禁止ね。新しいスマホとPCは、私が全部手続きするから」一つ一つ指示していく真琴。その姿はとても頼もしく、沙月は胸が熱くなる。「……真琴……ありがとう……」真琴は机の上のSDカードをつまみ上げた。「これは私が預かる。沙月が持ってたら危険すぎるから。中身をもっと分析させてもらうね」「うん」すると真琴は立ち上がった。「さてと、それじゃそろそろ帰るね」「分かった」沙月も慌てて立ち上がり、扉へ向かう真琴に続く。「沙月……」真琴は扉前で振り返った。「大丈夫、私がいる。一人じゃないから」「ありがとう、真琴」「うん、またね。ちゃんと鍵を掛けるのよ」「







